東方赤目日記
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彼方の空、いつかの空 ― 一 ―

鳥の声で目を覚ました。
闇の訪れを告げるかのように鳴く鳥は、今日もまた無為に一日を過ごしてしまった事を知らせるもの。誰に咎められるわけでもなく、誰に迷惑を掛けるわけでもない。
元よりこの場所には自分以外の人間は居なかった。

枕代わりにしていた、二重に折りたたんだ座布団から身を起こし、眠っている間に乱れた衣服を整える。無理な体勢で寝ていたためか、体の節々が痛んだがそれもまたいつものこと。
布団の上で寝ることよりも、畳の上で寝てしまうことの多い自分にとっては至極当たり前のことだった。

寝ぼけ眼を擦りながら、未だに惰眠を貪ろうとする頭を無理矢理覚醒させる。このままこの部屋に居たら、あの枕の誘惑に勝つことは難しいだろう。

『……外に、行ってみようかな』

何気なく、開け放たれた障子張りの襖に目を向ける。二色の絵の具に彩られた境内。紅と蒼、それらが絡み合い、引き立てあい、見慣れた空間が幻想に変わる瞬間。
未だに鳴き止まぬ仕事熱心な蝉の声と、家路を急ぐ鳥達の声。

『……そういえば、私こんな布団掛けてた覚えないんだけど』

境内に出てきた自分を迎え入れるものは、とおく、遠くに響く雷雲の咆哮。
空を見上げれば、黄道光に包まれた峰をゆっくりと覆っていく黒い影が見える。こちらにはまだ影響は無いが、後数分もすれば雨が降ってくるかもしれない。

遠くから迫る咆哮に尻込みしたのか、先ほどまで聞こえていた鳥の声はいつの間にか疎らになっている。そろそろ明かりを点けなければ、歩くことさえままならなくなりそうだったが、あえて明かりは点けなかった。
失われつつある僅かな光を頼りに進む先は、すぐそこにある古木を組んで作られた物干し竿。

鳥の声に感謝する。大切な洗濯物が、きまぐれな雷雨の餌食にならずにすんだから。
鳥の声に感謝する。紅と白と黒、その三色が交わる唯一の刻に自分を誘(いざな)ってくれたから。

黒よりも黒い暗闇を、ほんの一瞬だけ照らす圧倒的なまでの光の帯。
永遠とも言える時間の渦の中、『ただの一瞬だけでもそこに在ることを許された』神の雷。

――それはあたかも……――

何故自分は……。

――     のような……――

その情景に魅入ってしまうのか解らなかったけれど……。
きっとそれは気にしなくても良いことなんだろう。

今気にするべきことは、この生乾きの洗濯物を何処に干しなおすかということと……。自分が寝ている間に布団を掛けたのは、一体誰なのかと言うことだけ。

頬を濡らし始める雨の中で、いそいそと洗濯物を取り込む博麗の巫女。
何事も無いことが約束されている日常の中で、彼女が考えていたことはかくも普通のことだった。

 ◆          ◆          ◆

―― いつか見た日々の夢を見る――

霞がかった情景の中に写し出されるものは、過ぎ去りし日々の記憶の断片。移ろい、流れ、時の流れに抱かれながら消えてゆく彼方の想いは、幼いその手にはもう戻らない。

遠い、とおい空にある確かなカタチ。
凍てついた夜の闇、空虚で無為な刻の牢獄の中にいて尚、感じることができた確かなカタチは、もはや誰の心に響くことも無い。

覚えている。
忘れない、忘れ得ない。
ずっと覚えている。
永遠に覚えている、そんなことに意味なんて無いのに。

――想うことを止めた日はいつだっただろう――

彼方の空、いつかの空 ― 二 ―

今日の幻想郷は雨。昨日まで続いていた暑さは何処吹く風か、一休みだと言わんばかりに静まり返っている。来る日も来る日も飽くことなく鳴いていた蝉の声も、今日は心なしか少ない。
空を見上げても、見えるものは暗鬱とした曇り空だけだ。

『雨だぜ…』

雨は憂鬱になるから嫌いだ、と、ある妖怪は言った。
人の感情が天候によって左右される、そんなことはよくあることだったが、どうやら妖怪にも同じことが言えるらしい。存外興味深い話だったのかもしれないが、その時の私にとってはどうでも良い話だったので、近くにあった人形を小突きながらさらりと流していた話。
二月ほど前の話だった。

もし、その瞬間から変わったものがあるとしたら、それはこの世界の季節と自分の感情だけだろう。今の私が、その日その場所に居たのなら間違いなくこう答える。

―― 今年の雨は、世界を変えるぜ ――


この瞬間をどれほど待ち望んだものか………。とうとう待ちに待った日がやってきたのだ。絵に描いたような雨模様は私の心を躍らせる……今日こそは……。
そう、今日こそ『あの新魔法』を試すにはもってこいの天候なのだ。

雨が嫌いだと言ったあいつは、今頃部屋で憂鬱な朝食をとっているかもしれないが、そんなことは知ったことではない。今の私の気持ちに比べれば、それは極々些細な変化。『大事の前の小々事』という言葉は言いえて妙だったが、それ以外に形容する言葉を思いつかなかった。

『例えるなら、数年来の恋人とようやく再開できたような気分だぜ』

……もちろん、実際に経験したことはないが。

とにもかくにも、さっそく外に出るための準備を始める。徹夜で作業していたためか薄汚れていた衣服を着替え、乱雑に詰まれた本の上に置かれたお気に入りの帽子を手に取る。
……その帽子はまだほんのりと湿っているようだ。

『……ま、気になるほどでもないな』

先日、神社に行った帰りに運悪く雷雨に見舞われ、ずぶ濡れになって帰ってきた事を思い出す。行きは快晴だったので、何の心配もせずに出掛けたのだが………それがそもそもの間違いだった。
結局神社の管理人は寝てるわ、自分の家に着いたとたんに雨はあがるわで散々な目にあった。今度出掛ける時は『この魔法』の準備だけはしておこう、と、固く誓った日でもある。

『……まぁ、あいつは別に起こしても構わなかったのかもしれないけどな……』

あまりにも無防備に……そして、あまりにもあどけない顔で眠る姿に、声を掛けることができなかったのだ。

……正直、普段の様相とのギャップに内心焦っていただけとも言うかもしれないが、考えてみれば結構長い付き合いになるだろう、あいつとの付き合いの中でもあの『ギャップ』だけはどうしても慣れることが出来ないことのひとつだった。

『……神に仕えるってのも、色々と大変なんだろうな』

考えても詮無きことを思案しつつも、身体は今日の実験の準備を続けている。数日前には完成していた出来立ての符と、魔力が無くなった時のために用意した特製の魔法薬。
もはや手放すことが出来ないだろう、自分の魔力が腐るほど籠められた二対の守護水晶ももちろん忘れない。

一通り準備が出来たところで、薄暗い部屋を照らしていたランプに人差し指を向ける。すると、部屋を照らす灯りは、窓から入ってくる頼りない曙光だけになった。
最後に愛用の竹箒を手にして準備完了だ。

「いざ行かん我薄明の大地へ!!」

玄関の扉を文字通り『蹴り開けて』、翻るスカートも気にせずいつものように箒に魔力を込める。自分の身体が、この地面に縛りつけようとする重力から解放されてゆくのを感じる。
湧きあがってくる興奮と、抑えようのない浮遊感。この世界と一体になったような『自由』の感覚と、人の身でありながら人ならざる力を使うことへの圧倒的な背徳感。

この瞬間が一番好きだった。

自分が『この空を初めて飛んだ日』。
その日のことは今でも覚えている。
誰に何を言われようが、一日中この箒を放さずに魔力が尽きるまで飛び回っていた。
他人(ひと)の力ではなく、自分の力……。
自分の努力が実った瞬間がどんなものよりも嬉しかったのだ。

『………』

…何故、今になってそんなことを思い出してしまったのだろう。
昔のことなどとっくに捨てたはずの自分がそんなことを思い出す………滑稽な話だった。今の自分には全く関係のないことだ。

そもそも、それは霊夢と出会う前の話である。
ましてや、今から行う実験にも全く関係の無い話……。

箒に伝わる魔力はすでに十分な量を超えている。
足はとっくの昔に地面から離れていた。
身体に伝わる重力の感覚は無く、感じるものは全身を打ち付ける雨風だけ。

そう、今日はこの『新魔法』を試す日だ。
歴史的瞬間、この幻想郷から≪ 傘が無くなった日 ≫として永遠に語り継がれていく『いんでぃぺんでんすでい』なのだ。

余計なことを考えている暇は無い、この魔法が成功した暁には真っ先に『紅魔館』に行って歴史的瞬間をあいつらに知らせる約束もしてある。
失敗は許されない、どこぞの門番風に言うなら『背水の陣!!』だぜ。

自分の周りを等間隔で周回している四つの守護水晶に念を送る。
徐々に回転速度が上がり、『赤、紫、青、緑』それぞれの輝きが水晶に宿り始める。

――圧倒的な力を持って浮かぶ四つの輝きは、見るものにどんな感傷を抱かせるのだろうか――

――いわく、星の海を切裂く一筋の流星のような――
―― いわく、霧雨に浮かぶ朝未きの輝きのような――

――輝き、光、闇夜を照らし、その灯火を統べる者――

その光が最高潮に達し、幾何学的模様を描き始めたその時、一枚のスペルカードを取り出して私は全魔力を解放した。

『 天符・時雨結界 』

蒼と白の光の奔流。
その光の中心にいる私を優しく包み込んでいく確かな力は、虚像から実像に変わるきっかけを見つけたかのように次々と形を成してゆく。虚像と実像の境界は今曖昧になり、その変化についてこれないものを飲み込み消し去ってゆく。
その瞬間、私の身体を打ち付けていたものは現世から消え去り、虚像となって何処とも知れぬ彼方へと落ちていった。

「……成功……したのか…?」

幾何学模様を描いていた守護水晶は、淡い輝きを保ったまま自分の周りを球を描くように回転している。その球面が虚実の境界だと言わんばかりに、空から落ちてくる雫はその球面から先に入ってこようとはしなかった。

霧雨魔理沙。
生活に役立つ魔法を開発し続けてきて幾数年。

「……うん」

親友の得意分野であり、数ヶ月前までは素人であった自分が今成功させた『結界魔法』。彼女が喜んでいる要因は二つある。

その一つは、この数ヶ月の努力はけして無駄ではなかった証をついに手に入れたこと。
そして………。

「上出来、だぜ」

この成功が、彼女にとって『誰かのためになる』初めての大成であったということ……。

彼方の空、いつかの空 ― 三 ―

雨が降り続く幻想の空。
全てのぬくもりを冷やすかのように降り続くその雨は、見るものにどんな感情を抱かせるものか。もし、この悪天候の日にどこかに出掛けようとする者がいるのなら、それはこの二通りの者のいずれかだろう。

ひとつ、よっぽどの捻くれた性格の持ち主。
ひとつ、よっぽどのお節介焼きの人間。

「魔理沙、本当にこれ大丈夫なの?」

幻想郷に現れた一筋の流星。風を切り、降り続く雨さえも切り、水滴一つ入れずに疾走するその空間は人の力が作りし境界。
箒にまたがり周囲にある水晶に魔力を供給し続ける魔法使いは、振り返らずに答えた。

「ああ、もう全然心配ないぜ、大船に乗った気分でいてくれて間違いない」
「……本当かしら」

溜息のように呟くその声は、呆れと困惑と不安と、そして少しの楽しさが籠められたような複雑な声色。二人乗りの箒と、周回する水晶に気を取られている魔理沙を横目に、未だに雨が降り続く空を見上げる。

『彼女』にとって、『雨の日に外に出掛ける』ということは本来ありえないことのはずだった。

 ◆          ◆          ◆

「レミリア、ちょっといいか?」

雨が降り続く日の紅魔館。
そこで働くメイド達にとって、それは最も忙しい一日のひとつでもある。

「あら珍しいわね、こんな所に来るなんて……図書館にパチェは居なかったのかしら?」
「いや、そんなことはないが……なにやらあいつ今日は喘息の調子が悪いらしくてな……」
「ああ…」

納得とでも言うように軽く頷くと、レミリアは目の前のテーブルに置かれた『紅茶』に口を付ける。部屋の入り口に居たと思った黒い魔法使いは、いつの間にか彼女の向かい側の席に腰を下ろしていた。

「しかし、あれだな、今日のメイド達はいつもにも増して忙しなく動いてないか?」
「…そう? まぁ雨の日はフランも外に出れなくて駄々をこねるから、それの相手でもしてるのかしらね」
「そういえば、フランドールはどこに居るんだ? パチュリーのところにゃ見かけなかったが」
「…確か、美鈴のところに行くとか言ってたわ、雨の日はいつもそんな感じよ」
「…ほう」

特になにも言わず、魔理沙はその言葉を最後に腕を組みながら考え込むような仕草をしている。その間、この部屋には僅かな沈黙が訪れた……。

外から聞こえてくるものは、世話しなくメイド達に指示を送る『誰か』の声と、遠くに響く『爆発音』と『悲鳴』。心なしかこの館を包む雨音が強くなっていた。

魔理沙がレミリアの部屋を訪れる回数は、控えめに見ても多くはない。
この館に訪れたとしても、大抵はパチュリーのところで本を読んでいるか、駄々をこねるフランドールと一緒によからぬ事をしていることが多いからだ。例えこの部屋を訪れたとしても、彼女が一人でこの部屋を訪れるということはほとんどなかった。

『魔理沙が、最後にこの部屋を訪れたのはいつだったかしら……』

レミリアは今、この魔法使いが何故自分の部屋を訪れているのか、その真意を掴めずにいた。

「それで、暇を持て余した魔法使いさんは、暇を持て余す私のところへ来て一体何をしてくれるのかしら?」
「あーー、そうだな……ちょっと耳を貸してくれないか?」
「……一体なんなの?」

理解に苦しむとでも言いたげなレミリアを尻目に、
魔理沙は席を立ち、吐息が届くような位置まで顔を近づけてくる。

「悪いな、咲夜に聞かれたら色々と困るからさ…」
「………」

閉じた世界の中で空を見上げていた。
何かをずっと閉じ込めておくかのように。
終わることなく降り続く雨音は、『少女』にどんな感情を抱かせるものか。
500年もの永きの間、終わりなく続いてきたこの『世界』……

「レミリア……」

500年もの永きの間、終わることなく続いてきた少女の『運命』は……

『 今から、一緒に神社へ行こう 』

今、一人の人間の手によって塗り替えられた。

 ◆          ◆          ◆


「それにしても……」

レミリアは降り続く雨と、今自分が居る世界の境界を一瞥しながら、静かな感嘆の言葉を口にする。

「よくもまあ、こんなスペルを思いついたものね」

前から後へ、過ぎゆく季節のように流れてゆく景色は、紅い悪魔である彼女にはけして見ることが出来なかったもの。

「…それは褒め言葉なのか?」
「一応、そういう風に受け取ってもらっても構わないわ」

今、自分が居る世界が何を意味しているのか…。

――雨は、一部の悪魔には歩くことすらかなわないもの――

この雨の中を疾走する空間が何を意味しているのか、レミリアは気付いていた。運命を操り、見るもの全てに畏怖の念を抱かせる彼女にとって、それは感嘆の声を上げさせるに十分な所業だった。

「ところで、雨の日の霊夢って、いったい何をしているのかしら?」
「んーー、まぁ別段いつもと変わりないような……正直、寝てるか、縁側でお茶を飲んでる姿ぐらいしか見たことないぜ」
「酷い言われようね」
「事実だぜ」

魔理沙は、先日運悪く雷雨に見舞われたときの話をレミリアに語り始めた。

「結構待ってたんだけどな、結局あいつ起きないし」

霊夢が普段どんなことをしているのか、あいつが毎日どれだけ寝てばっかりののんびりした生活を過ごしているのかを語り続ける。レミリアはその話を、なにも言わずに黙って聞いていた。

「………」
「………って、どうしたんだレミリア?」

突然の沈黙に不安を覚え、魔理沙は箒を操ることすら忘れて振り返る。
色の無い表情で彼方を見つめるレミリアがそこに在った。

「ん? ……ああ、別になんでもないわ………」
「……なんでもないって……」
「…『霊夢はやっぱり霊夢なのね』って思っただけよ」
「………」

その言葉の真意を、魔理沙は理解することができなかった。レミリアは彼方を見つめながら、とおく『神の無い神社』に暮らす『人間』のことを想った。

『……運命…か』

言葉で言うほど簡単なことではなかったはずだ。
運命を塗り替えるということは………。

――運命を操り、『その運命に縛られていることを理解している』存在――
――運命を塗り替え、その塗り替えた運命を護るために『努力している』存在――
――運命に縛られ、その運命に縛られていることに『気付かないふりをしている』存在――

この関係はなんて滑稽なんだろう。私は運命を操ることが出来ても、その運命を『塗り替える』ことなんて出来はしない。

『……最初は私に似てるって……思ってただけなんだけどな』

例え私にとって刹那的な出会いであったとしても、貴方は『私と同じ運命を辿る』唯一の人間だった。
望まない運命に縛られ、それでも尚、貴方は貴方らしく生きるために努力をしていた。例えそれが、『後ろ向きの勇気』であったとしても、貴方は『人間』であり続けることをやめなかった。
……やめることが出来なかっただけかもしれないが。

強くて弱くて、冷たくて暖かくて……。
本当は誰よりも人間らしいくせに、誰よりも人間らしくないふりをする。
誰とでも同じように接し、近づいた分だけ離れようとする貴方は、未だに覚めない眠りの中なのか。

………私にはできない。
私には、今尚、『夢の中にいる彼女』を救うことなんて出来はしないだろう。
ただ『流されるだけ』の自分は、その運命を塗り替えることはできない。
もし……それが出来る者が居るとしたら……。

「魔理沙」

迫り来る風雨を操り、人の身でありながら『空に近づくことが出来る者』。

「ん? どした?」
「……なんでもない」

ハテナ顔で箒を操る魔理沙の横顔を、レミリアは穏やかな気持ちで眺めていた。

『……かなわないかもね』

この世界に神というものが存在するのなら、私はその神を恨むかもしれない。

 ◆          ◆          ◆

永遠に紅い幼き月が願うもの。
自分とはけして相容れないはずだった、『望まない世界へと召喚された少女』と、境界の彼方に残る『けして還ることのない少女の夢』。

――願わくば、少女の夢がいつの日か 解放される時が訪れますように……――

彼方の空、いつかの空 ― 四 ―

その場所は優しい音に包まれていた。
静かに屋根を叩く雨の音も、囁くように響く葉擦れの音も、雨粒をしのぐために境内の木々にとまっている鳥達の囀りも。

その全てが、この場所を護るかのように。
その全てが、この場所に暮らす少女を見護っているかのように…。

「ねえ霊夢っ、今から外に出掛けましょうよ」
「…あんたは雨の中、外を歩けないんじゃなかったの?」
「大丈夫よ、ほらそこに運転手が居るから」
「3人は定員オーバーだぜ」

すでに二人がこの博麗神社を訪れてから、数刻の時が流れていた。
外に出ることが出来ない少女達が話していたことは、取るに足らないことばかり。

やれ、最近咲夜が神社に来ることに反対するようになっただの。
やれ、最近アリスがこっそり森のきのこを使おうとしている所を目撃しただのと言ったような、他愛のないことばかりだった。

「そういえば魔理沙、なんでこんなスペルを開発しようなんて思ったのよ?」

霊夢はちゃぶ台の向かい側に座る魔理沙を見ながら、当然のように質問をぶつける。

「…なんでって………便利だろ? あったら」
「……まぁ、そこにいるレミリアと妹にとっては便利かもしれないけど」
「…快適な旅だったわ、魔理沙、今日からうちのメイドにならない?」
「…運転手の間違いじゃないのか?」

魔理沙の真意は解らないが……多分自分の為でもあり、その先に居る霊夢の為でもあるんだろう。そんなことを、レミリアはなんともなしに考えていた。

「…こうして過ごしていると、雨の日も悪くないって思えてくるわね」

ちゃぶ台の傍に座っている二人の下を離れ、一人開け放たれた襖に手を掛けながら外を眺めている。

「私の魔法も、少しは役に立ったみたいだな」
「……ええ、そうみたいね」
「魔理沙の魔法に感謝してる人、はじめて見たわ」
「あら、私は『ひと』じゃないわよ」
「魔理沙の魔法に感謝してる人間以外」
「…なんかもう、私の魔法なんかどうでもいい話になってきてるぜ」

穏やかな雨の日の午後。何が起こるわけでもなく、ただ、その一日は少女達の『夢』を次の日へと運んでくれるだけの毎日。

『……いくらなんでも、そろそろ気付いたみたいね』

遠く、神速の速さで近づいてくる従者の気配をレミリアは感じ取っていた。

外を眺めていた目を、部屋の中へと戻す。
そこに在るものは、軽く目を伏せながらお茶を飲む紅い少女と、襖に背中を預けながら本に目を落とす黒い少女。
物言わぬ、心地よい沈黙がその空間を包みこんでいた。

――気付いたら、この場所に立っていた――

少女は気付いているのだろうか。
あの日、あの時間、あの場所で貴方が求めていたものは。
今、目の前にあるのだということを。

――気付いたら、私の手の中にあったものは何一つ残されていなかった――

少女は気付いているのだろうか。
こんなにも貴方のことを想ってくれている『ひとたち』が居る。
誰よりも孤独だった貴方は、今誰よりも満ち足りた日々を送っているのだということを。

――望まない力を手に入れて……――

気付いて欲しい。
貴方は既に、紛うことなくこの世界の住人になっているのだということを。

――望まない運命に身を任せて……――

そして、忘れないで欲しい。
少女の夢は、けして還ることはない。だけど、その夢を過去のものとして、新たな色に『塗り替える』ことは出来るのだということを。

――それでも尚、私は私らしく前を向いて歩いてきたつもりだった――

彼方の空、いつかの空 ― 五 ―

「静かだな……」
「……そうね」

その場所は穏やかな空気に包まれていた。
先程まで降り続いていた雨は上がり、晴れ間から顔を出していた日の光はすでに彼方の山に落ちている。
そこに在るものは、暗闇が訪れた部屋を静かに照らすランプの灯。
そして、寄り添うように浮かぶ、二つの影だけ。

「それにしても…さすがにあれは焦ったなあ」
「あんたが本気で焦ってる所なんて久しぶりに見たわよ」

さもおかしかったとでもいうように、霊夢は無邪気な顔をのぞかせている。
こいつのこういう顔を見ると、私は少しホッとする。

「ああいう時は助けてくれるのが友達だろ? 助け合いの心ってやつを学校で習わなかったのか?」
「あいにく、友達は選べっていう格言がこの神社にはあるのよ」
「そりゃまた随分と、俗に染まりきった有り難くもない格言だなあ」
「そうね、あんたの『生活に役立つ魔法』と同じぐらい、有り難くないわね」
「失礼なっ! 実は今まで隠してたんだが、私はすごい魔法を使うことが出来るんだぜ」
「…どんなのよ?」
「豊胸魔法」
「ぶっっ!!」

霊夢は口に含んでいたお茶が吹きでるのを、真っ赤な顔をして必死に押さえている。普段冷静なやつほどこう言うときの反応が面白い。
私は込み上げてくる笑いを堪える事なく、声を上げて大笑いした。

「くっくっく……あ〜あ、霊夢、乙女がそんなことしてたら嫁の貰い手がなくなるぜ」
「あ、あんたが悪いんでしょ!」
「……なんだ霊夢、もしかして実は『悩んでた』のか!? それならそうと早く私に言ってくれれば良かったのに……いくらでも協りょ」
「悩んでないし、悩んだことも無い!! …って、私一体何を言ってるのかしら…」
「嫁の貰い手の話だろ」
「会話ずれてるずれてる」

心地良い空気に包まれていた。いくらでも冗談が通じる相手がいる……こんなに幸せなことはないだろう。……私はこの雰囲気が好きだった。
毎日くだらない話をして…毎日くだらないやり取りをする…。
他人から見たら『タダくだらないだけの毎日』かもしれないが、私に取っては何事にも変えがたい特別な毎日だった。

なにやら眠そうに欠伸をかみ殺している霊夢を見ながら、先ほどあった出来事を思い出してみる。

正直、咲夜が憤怒の形相でこの神社に突っ込んできた時は、さすがの私も焦った。
問答無用で『弾幕(や)りあう』ことになったが、あいつ『この前の時』よりも遥かに気合が入ってたような気がするぜ。
あのナイフの速さは以前の『メイド秘技』の比じゃなかった……聞いたこともないスペル名を口走ってた気がするし……。

まぁ、私が悪かったってことは解ってるんだが……。
それにしても、もう少しこっちの話を聞いてくれても良かったと思う。

あの時レミリアが間に入って止めてくれなかったら、正直どうなってたことか……。

「………」

しかし、何故、レミリアは頻繁にこの神社に訪れようとするのだろうか。
ただ単に霊夢のことを好いていると言えば、そうかもしれないのだが……。

『って、私も人のこと言えないか』

考えても詮無きことに目を向けるより、今は目の前に迫った空腹を何とかするべきだろう。


――もし、言葉にせずとも伝わる想いというものが存在するのなら………それは相手のことを理解しようと想う心と、相手がこうあって欲しいと願う心が生み出すのかもしれない――


「よし、霊夢今日は私が晩飯作ってやるぜ、何が食べたい? この霧雨姉さんにバーンと言ってみなさい」
「(姉さん?)んー、そうね、せっかく二人居るんだし、鍋なんか良いんじゃないかしら?」
「夏に鍋か………風流だねぇ、そういうの私は大好きだぜ」
「……夏に鍋が風流なのか?」
「細かいことを気にしてたら生きていけないぜ、もっと物事の本質を見極めないとって……あー誰が言ってたんだっけ?」
「……知らないわよ」


――言葉にした想いが例外なく伝わるとは限らない。元より、想いが全て言葉に出来るなど、人間の自惚れが生み出した絵空事だろう――


「……そう言えば、ここで料理をするのも久しぶりな気がするな、むしろ、一人でここの炊事場に立つなんて初めてな気がするぜ」
「……ああ、もう魔理沙その鍋吹き零れてる!」
「おおーっと、危ない危ない、危うくこの神社を素材に使った壮大な創作料理を作ってしまうところだったぜ」
「冗談でもそんなこというなっ」
「…ところで霊夢、部屋で鍋が出来るのを待ってるんじゃなかったのか?」
「危なっかしくて見てられないわ、私も手伝う」
「…………やっぱり霊夢は霊夢だな」
「? 言ってる意味が解らないんだけど」
「それは乙女の秘密ってやつだぜ」


――何かを伝えようとする想い、何かを届けようとする想い。言葉に出来ない想い、言葉にするべきでない想い――


「どうだ、私の包丁裁きもなかなかのもんだろ?」
「…まぁ、悪くないんじゃない」
「今度は霊夢がやってみてくれよ」
「しょうがないわね……」
「………」
「………」
「………あー、もういいぜ……霊夢」
「ん、そう? まだ途中だけど…」
「…………うますぎるんだよ」
「?」
「 ……これがまた天然だからな……こいつも困ったもんだぜ」


――そんな大切な想いを捨ててまで……私は一体何をしてきたのだろう。
そんな大切な想いを捨ててまで……これまで私は何をやってきたのか。
……きっと何もなかった。

想いを捨てた日……夢の中にいつか還れる場所があると信じていた。
何処までも続く無為な日々から、目を逸らすことでしか前を向いて歩くことが出来なかった――


≪  この世界に来たばかりの私は―― ≫

「……結構良い出来………じゃないのか…?」
「そうね………少なくとも見た目は」
「……見た目は…な」
「………」
「…食べてみようぜ」
「…魔理沙、先に食べなさいよ」
「霊夢こそ……遠慮なんかしないで先に食べていいぜ、私は小食だし…」
「あら奇遇ね、私も実は小食になったのよ……ついさっきから」
「………」
「………」


――……今なら解る気がする。
過ぎて行く日々の中で……私はどれだけのものに目を逸らしてきたのか。
今、この時間……『この時』までも、私は無為な日々として流れゆく季節の中に捨ててきていたのだと言うことを――


≪ きっと誰よりも弱い人間だったんだろう―― ≫

二人が見つめる先にあるもの。その場所には、他でもない『二人』が共に作った、この世界でたった一つのものがそこにある。

「よし! どっちが先に食べるか、私達らしく『アレ』で勝負して決めようぜ」
「望むところよ、なんか久しぶりに『本気で』やりたくなってきたわ、魔理沙、悪いけどこの鍋はあんたのものよ」
「はっ、なかなか頼もしい台詞だが……その台詞……そっくりそのままお返しするぜっっっっ」

――過ぎてゆく季節の中で残るものがあるとしたならば。
それはこんなにも当たり前でくだらなく、そして何よりも大切な日々の中にあるのかもしれない――

≪ こんな特別な毎日がずっと続けばいいのに…… ≫

≪ そんなことを………想った―― ≫


 ◆          ◆          ◆


―― いつか見た日々の夢を見る――

霞がかった情景の中に写し出されるものは、過ぎ去りし日々の記憶の断片。移ろい、流れ、時の流れに抱かれながら消えてゆく彼方の想いは、幼いその手にはもう戻らない。

遠い、とおい空にある確かなカタチ。
凍てついた夜の闇、空虚で無為な刻の牢獄の中にいて尚、感じることができた確かなカタチは、もはや誰の心に響くことも無い。

覚えている。
忘れない、忘れ得ない。
ずっと覚えている。
永遠に覚えている、そんなことに意味なんて無いのに。

――想うことを止めた日はいつだっただろう――


『    』

声が聞こえた。
夏空の下、囁くように響くその声は確かに聞き覚えのあるものだった。
色を失っていた空虚な夢が、静かにその形を変えてゆく。いつか見た情景、過ぎ去りし日々の記憶は郷愁にも似た感覚で満たされていった。

ぬくもりを感じる。この世界に来てから一度も感じることが出来なかった感覚が、自分を満たしていくのが解る。

なにもなかった。
無為な日々を過ごしてきた。
それをおかしいとも想わなくなった。
今、自分が感じているものは一体何によってもたらされたものか。

永遠に続く刻の牢獄の中、四方を空虚で囲まれた自分はどれほど無為な存在だったか。永遠に続く自由の名の下、自分だけがその『自由』という言葉に縛られていた。

――夢の終わり――

何も無い、何も無い、何も無い、今の暮らしが?
そんなはずは無い。

此処にはぬくもりがあった、此処には人の暮らしがあった。此処には妖怪が在った、此処には亡霊があった、此処には悪魔が在った。
そして、此処には人間が在った。

もう無為な日々を過ごすことは無い、もう遥かな郷愁に想いを馳せることもない。元より、此処には私の居場所があったのだ。


鳥の声に感謝する。
大切な洗濯物が、きまぐれな雷雨の餌食にならずにすんだから。
鳥の声に感謝する。
悪戯好きの魔法使いが見せる、本当の顔を私に見せてくれたから。

「…ったく、夏だからってそんな格好じゃ風邪ひくだろ」

未だに私が起きていることに気付かないのか、
何処からか持ってきた布団を私に掛けてくれる。
その仕草はどこまでも優しかった。

誰かの為を想い、誰かの為に行動し、誰かの為に夢を見て、誰かの為に今日を生きる。今までそんなことは考えたことも無かった、元より考える相手がいなかった。

ずっと独りだった自分。
何も無い空虚な日々が全ての『特別』を奪っていったあの頃。

過ぎて行く、何も無く過ぎて行く。誰か他人が訪れたとしても、その他人にとってこの場所は単なる通過点にすぎなかった。

過ぎて行く、何も無く過ぎて行く、刻の流れも人の流れも絶え間なく過ぎて行く。そんな流れの中、たった一人だけこの場所に留まってくれた『ひと』がいた。

解らなかった。何故彼女がこの場所に留まっているのか自分には理解できなかった。何度も何度もこの場所を訪れて、何度も何度も私にちょっかいを出して帰ってゆく。
いつもその繰り返しだった。
今までの空虚な日々と変わりない、繰り返しの毎日。

だけど……。
いつの日かその繰り返しが当たり前の日々に変わり、私達の関係が『他人』から『友人』に変わり始め、そして、それが『親友』に変わった頃。
いつの間にかそんな当たり前の日々が、『特別な日々』に変わっていた。

空虚な日々なんてない、何も無い毎日なんて此処にはもう存在しない。
『みんな』がいた。この場所にはもう、何処からともなく集まってくる『ひとたち』がいた。

中心には誰がいる?
私を変えた張本人はどこにいる?
いつも誰かの為に、頼んでもいないのに余計なことをする捻くれ者の魔法使い。

「………」

布団を掛け終えたあいつは、眠ったふりをする私の側に座り込んで自前の本を読んでいるようだった。眠気が移ったのか、目を擦りながらあくびをかみ殺している。
その仕草が無性におかしかった。

「魔理沙」

その日、その時間、その場所で何かを失ったとしても。
この日、この時間、この場所で全てが終わったとしても。

今、此処に在るもの。
『この場所』でしか手に入らなかったものが、此処にある。

何かを失い、何かに囚われ、それでも前を向いて歩くしかなかった日々。
空虚の中に救いを求め、凍てつく闇の中を、過去の灯火を頼りにたった独りで歩いてきた。

いつか、帰れる日が来ることを夢想していた。それが幻想だと気づいた時、目の前に残ったものは、望まないこの力と自由と言う名の牢獄だけだった。

今、目の前にあるものは?
今、自分の側に居てくれるものは?

「…ん」

私の声に気付いたのか、本を読んでいたあいつの顔がこっちに向けられる。その瞳に、今の私はどんな風に映っているのだろうか。

大切なものは此処にある。
過去の灯火に囚われていた日々は遥か遠く、いつか見た日々の夢は郷愁の想い出へとその身を変えた。解放された想いは、刻を越え、境界を越え、遠いとおいあの空の下へと無事に届けることが出来るだろうか。

私は此処にいる。
『博麗 霊夢』はこの幻想郷に在る。

貴方は何処にいる。
大切な貴方はこの幻想郷の何処に在る。

――ずっと伝えたい言葉があった――

人の身でありながら人であることを禁じられ、人外であることを求められながら『ひと』であることをやめることが出来なかった。あの日、あの時間、あの場所で貴方に会うことが出来なかったら、私は空虚な牢獄の中で独りきり。
涙を流すことすら忘れていたかもしれない。

「…魔理沙」

もし、言葉というものに想いを伝える力があるのならどうか届けて欲しい。
私がこの日、この時間、この場所に居ることが出来るのは誰のおかげか。
繰り返しの日々の中で気付かせてくれた『特別な毎日』はどれほど私の心を癒してくれたことか。

「 ありがとう 」

幻想郷に陽が落ちる。
解放された少女の夢は姿を変え、形を変え、空に放たれた想いを力に変えて一枚の符へとその姿を変化させた。
風に乗ってふわふわとたゆたうその姿は、人々に深い郷愁を感じさせ、淡く二色の光を放つその外見からその符の名は『二色蓮花蝶』と名付けられた。

 ◆          ◆          ◆

風に乗り、ふわふわとたゆたう、何処までも遠くへ。
とおい、はるか遠い境界の彼方。
とおい、遠い空の下まで届きますように……。


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